言の葉

みかでぃが「この気持ち書き留めたい」と感じた時の黒板です。記事公開数日後には黒歴史になって後悔してますが、消しません。

自惚

人間は誰しも自惚れる。

それはより高次なものを理解することができないためである。自身で知り得る知識の中で最も思慮深いのは自身である。

しかしそれは傲慢である。より高次の知能指数を持つ人間は、そんな愚かな下級民族とは深い関わりを持たず、理解の得られる人間を選ぶ。

そして、自身より低い人間と関わるときは優しく合わせるのだ。だから、人間は誰しも自身より根本的に優れている人間が大勢いることに気が付かない。

自身が人生の主役なのであるから、それが誰かよりも劣っていると受け入れることも難しいのかもしれない。

 

だから、私もあなたも自惚れている。

消耗品

もう何回もこの投稿を書こうとしてやめた。深夜三時半ちょうどよく頭がバグり始めたので、自分を騙して書く。

 

言葉は消耗品だ。

あなたが何か一つ言葉を発するごとに、あなたの言葉の価値は失われていく。

特に、誰も求めていないのに勝手に自身のことを語り出すのは著しく消費する。

だけど、言葉を発したくなる、意見を言いたくなることもある。言葉の価値は使わなければ発揮されない。ただ、使うと全体の価値が下がる。

 

言葉の価値をあげる方法は行動することだ。

行動を起こせば価値が上がる。言葉に伴う行動であればボーナスがつく。

 

誰も求めていない文句を言うのであれば、それに伴う行動をしなくては行けない。現状を嘆くのではなく、変える努力をしろ。

さもなくば、あなたの言葉はひどく薄く軽く価値のないものになっているだろう。

 

だから、この投稿を書き留めるのは嫌だし、このブログを知る人も少ない。

井の中の蛙

外を歩いているとすぐ隣の草むらから虫の声が聞こえる。この声の主はこの小さな草むらしか知らずに生涯を終えるのかと思う。

山に行けば狐を見かけることがある。この狐はこの山しか知らずに生涯を終えるのかと思う。

動物園に行けば檻の中から出られない動物を見る。水族館の魚も変わらない。

誰も世界が広いことは知らないし知ろうとしない。たった一度の人生で知ろうとすらせずに寿命を削る。なんて愚かなのだろう。

少し世界を歩きたくなった。

後遺症

人生の大きな分岐点にいるかもしれない。

 

初めての投稿の一文目だけ帰り道に決めてきた。人生の中で価値観の変化について思い耽ることはそうそう多くない。そんな時はどこかに文章として起こしてみることにしていた。

昨年度の思い出は就活しかない。それ以外は実に自堕落な生活を送っていた。趣味といえばボードゲームとオンラインゲームくらいだ。

今年度に入る直前、仲のいい友達(K)との連絡が取れなくなった。約一ヶ月後、Kは何食わぬ顔をして戻ってきた。もしかして俺に原因があったんじゃないか、そんな罪悪感に駆られていたからかひどく安心したのを覚えている。

今年度がはじまった。昨年度同様学校では俺、K、Mの三人で過ごすことが常だった。Kは連絡の取れない間、一人でサウナ巡りやドライブをして過ごしていたと話してくれた。それから、三人で温泉に行った。暖かい温泉に浸かりながら新しい習慣について話した。新年度に入ったばかりで向上心に溢れていた俺たちは毎週火曜に温泉(サウナ)、日曜に水泳を習慣としようと決意した。

それからというもの、やけに充実した日々を過ごしてきた。新しい習慣が二つも増えたのだから当然といえば当然だ。それまでやってきていたプロジェクト活動も活発になりすべてがうまくいっているという高揚感に浸っていた。

七月一日、こんなにも不幸が重なった日は人生で見ても珍しい。その日は学会に向けた論文提出に追われていた。次の日からの帰省の予定はいつの間にかなくなっていた。お昼を過ぎたころ一通の手紙が届いた。学校から来たその手紙の内容が授業料免除申請の結果だということは開く前からわかっていた。結果は不合格。27万の請求が決まった。今期は大丈夫だろうと高を括っていただけあってかなり落ち込んだ。しばらく経つと自分の体調がすぐれないことを認識した。熱を測ってみた。37.5℃の熱があった。平熱は35.5℃程度だ。夜には内定先の懇親会があった。大量の汗が出るのに寒かった。途中で抜けてしまった。散々だった。それから月曜までただ寝た。

七月四日、コロナ陽性の診断結果を受けた。あぁ、俺もなるんだと変な感想を抱いた。学校が休めること、学会が辞退できることに少しだけ安心した気がする。熱は下がっていた。

自宅療養期間中、それまでの暇潰しのコンテンツは限りなく消費し時間を持て余していた。しばらく離れていたアニメ鑑賞を嗜むことにした。アニメには熱い友情や感動を期待していたと思う。しかしザッピングをして目に留まったのは「ゆるキャン△」だった。理由はわからなかった。再生ボタンを押した。

丸二日あっという間だった。シーズン1・2・へやキャン△を見た。ソロキャンのシーンがやけに印象的だった。見終わってすぐロス現象が襲い掛かってきた。そんな虚無感を紛らわすように「Dr. Stone」を見始めた。ロス現象は消えなかった。自身の心境と一度向き合うことにしてみた。

初めにわかったのは、単に虚無感に襲われているのではなく微妙に高揚感も感じているということだ。一度意識してしまうと、それが一人で物思いに耽りたい気持ちであることがわかった。それも家ではなく、自然の中でゆっくり自分だけの時間を過ごしたいのだ。虚無感もそうすることで埋められる気がした。

自宅療養期間が明け、いざ学校へ。空とは裏腹に気持ちは晴れなかった。そんな虚無感を満たすためにバスを待つ五分弱を使うことにした。大学前の芝生にある石材の椅子に座り少し先でボール遊びをしているちびっ子を眺めていた。自然の匂いに、暖かな太陽、なびく風に子供の楽しげな声。求めていた時間が流れた。いつまでも幸せで、5分なんて一瞬だった。

家に帰るとまたアニメを見始めた。見た作品は「宇宙よりも遠い場所」「ヤマノススメ」「のんのんびより」「スローループ」「放課後ていぼう日誌」などいわゆる「ゆるアニメ」だった。きっと潜在的に子供の頃に自由に遊んでたという原始体験・ノスタルジーを求めていたのだと思う。アニメを見ていくうちに心が満たされて、欲が生まれた。実際にアニメの世界のような体験をしたい、アウトドアがしたいと感じるようになった。バスを待ってる間の幸福感は変え難いものだった。

その時の生活といえば、アニメを見る生活で完全に昼夜逆転し寝るのは朝日が昇る頃になってた。けどそんな生活は気に入っていた。アウトドア欲に目覚めた夜も気がつけば朝日が昇りそうだった。

朝四時、函館山に登りたくなった。何も考えずに着替えて自転車を漕ぎ出した。誰もいない街、透き通った冷たい空気、この非日常的な時間がたまらなく好きになった。これから登る山も遠くに見える。自転車を漕ぐ足に一層力が入った。しばらくするも函館山の麓に着いた。

登山の準備などない。道具もない。けど心はすっかり子供の頃に戻っていて、躊躇いなんて全く感じなかった。山道に入ると草と土の香りを全身で感じることができた。歩くと息が上がって生きているということを実感した。蜘蛛の巣も気にしなかった。滝のような汗も気にしなかった。ただ、頂上を目指して歩き続けた。

しばらく歩くと視界が開けた。頂上だ。そこからは普段暮らしている街が一望できた。この時の達成感、高揚感は言葉で語ることはできない。とにかく、幸せだった。そしてこの瞬間に「登山(アウトドア)」という趣味が増えた。

帰ってからは14時間寝た。だから生活リズムは治ってない。けどそんなことはいい。

数日後、このブログを書くことを決めた。タイトルは「後遺症」。後戻りできない価値観を、幸せを見つけたのだからそれは後遺症である。

一人で静かに過ごす可惜夜が好きになった。誰も起きていない世界で迎える朝が好きになった。幸せと思える原始体験を思い出した。登山が好きになった。生きる糧を見つけた気にすらなった。

この経験を十分に楽しめるのは学生のうちだけだろう。だから今こそ人生を謳歌するのだ。この後遺症を守りながら。

 

 

後日談:

これらは夏休み直前の話だが、夏休みが明ける頃にはKもMも連絡がつかなくなっていた。たまたまだが、一人で人生を楽しむ術をこのタイミングで見つけたのは運命を感じた。

そして後半部分はこの下書きを一年後に掘り起こし、加筆した。文体が変わっているのであればそれが一年の変化なのかもしれない。